人生つらぽブログ

こんにちは はじめまして、とうふです。

今回は某質問サイトにて字数制限がかけられ投稿できなかった相談?を書かせていただきます。語彙力がないので分にまとまりがなくかなり長いです。読むのがめんどくさい方は最後らへんを適当に読んじゃってください。

だたいろんな人に読んでもらって、意見が欲しいです。読んでくださる方がいたら、感想何でもいいのでコメントに書き込んでもらえたら幸いです。

 

現在19歳で、大阪に一人暮らしをしています。

最近精神的に不安定で、自分でも説明がうまくできないのですが相談させていただきます。
度重なる自分の小さなミスが原因で鬱になり、休業、退職し、また精神科にてADHDの診断をした結果ADHDの不注意型、(あと多動性?)その延長で軽いうつになっているとのことで、アトモキセチンとミルタザピンを処方してもらいました。
精神科ではADHDの延長のだったのでADHDを治療する形になっています。
ですが、それと同時に家庭問題で鬱?になっていました。(ここから話が長くなります。)

 

 


中学時代。私は実に不出来な人間で、中学はわがままと反抗期で不登校になり、本当に手間がかかっていたと思います。それでも母は私の話をきちんと聞いてくれて、学校を休ませてくれたり、病院につっれて行ってくれたり、たくさん気を使ってくれました。笑顔で卒業できるくらいにまでにしてくれました。
母と父は仲が悪く、それが原因で病んだりもしました。
高校時代。お金のかかる私立高校に入学。
1年生まではそれでもまだ反抗期で、家出をしたり、両親と喧嘩したり。
その頃も両親の仲が悪く、仲がいい日はありませんでした。

 

2年生のころ、両親は別居することになりました。私には弟がいるのですが、弟と父がけんかをし、かっとなった父が弟に手を出そうとしたのを母が止めに入りケガをしたのが別居の決め手となりました。弟は完全に母親側で、私はその現場を見ていないからどっちにつくこともできないし、自分の家が気に入ってるからをいう理由で父側につきました。ですが、私の本心は普段出張の多い父側につけば家で好きなことができるからというものでした。
その後は母と弟は一軒家から近所のアパートに、私は父と一軒家に住んでいました。母が近所のアパートに住んだのは、どうせ父はろくなご飯を作らないだろうということで一軒家に住む私と父に晩御飯を届けるためでした。学校で食べるお弁当も毎朝届けてくれていました。

 

2年生の夏に大阪に住んでいる彼氏ができ、母に彼氏がいることと大阪に住みたいということも伝えました。母は、「まああんたがやってみたいとおもうならやってみなさい」と言ってくれました。

 

2年の秋、自分のわがままで不登校になり、母が探してくれた通信制の高校に通うことになりました。そこからだんだん、反抗期が薄れ感謝の気持ちが芽生え、母とは仲のいい友達のような関係になりました。ですが、母のことを手助けするようなことはありませんでした。父とは喧嘩気味にり、父のケチ臭い性格が合わず大げんかをし、私はそのままにもつをまとめてアパートに暮らすことに。それから大阪にすむまで一軒家に戻ることはありませんでした。

 

それから父はたまに晩御飯を一緒に食べる関係になりました。(お寿司などの外食)ご飯を一緒に食べた後は、かならずお小遣いと、「もしよかったらさ、席別々とかでいいから、弟とお母さん晩御飯誘ってみて」というセリフがセットでした。私は正直おこづかいをもらうのも抵抗がありましたが、なんとなくうけとってしまうのでした。実の父親なのに、パパ活のようなことをして、自分は何をしてるんだろうと、父とご飯を食べ家に帰ると必ず泣いていました。かといって弟は反抗期なのもあり、父とラインで話すことすら拒んでおり、母は養育費を渡さない父に腹立てていました。そんな状態で誘っても答えは大体想像がついて、伝える日と伝えない日がありました。

実際、父は自分のしたことをそこまで重く考えていないようで、私もそこは納得していませんでした。

 


そして今年の9月の三連休。コロナ禍でなかなか実家に帰れずじまいだったのですがとうとう帰ることができました。帰った一日目は母と父それぞれと買い物に行きました。一人暮らしをしてから、一人暮らしのさみしさを知った私は、父と外出する時間を積極的に増やしました。普段は自分から話さないのですがかなりうちとけて、楽しい時間が過ごせたと思います。
それと同時に、母が去年亡くなった祖父の遺産を使って弁護士を間にたて、父と本格的に離婚しようと考えているということを知りました。自分では忘れかけていた事件が、母はいまだにトラウマで精神的に来ているらしく、直接会って話すのも無理だと言っていました。そこで、父と母の溝を知ることができました。そこから自分がだんだんおかしくなっていきました。

 


高校時代、別居問題になったときも、結果的に別居はしていただろうけど、私利私欲で別居を進めた自分、父と母、どちらにもいい顔をして、親孝行しいない自分、父と母の溝を知ったのに、今更一軒家で家族団らん仲良くしたいという自分。最低の極みだと思います。最近は、家族で食べたごはんを見て泣き出したり、母がなにを楽しみに生きていけはいいかわからないといったラインをもらって自分の家の廊下で1時間泣き続けたときは、なんで泣いているだけなんだと、さらに自己嫌悪でどうにかなりそうでした。

家族が好きなのに、もう一緒に一つの屋根の下で過ごすことはないのかと思うと、本当に悲しい気持ちになります。(YouTubeコストコのホットドッグを見て父が食べていたこと、家族でコストコに行ったのを思い出し号泣するレベル...)

 

家族団らんしたいがために安易に父と母の距離を縮めることすら、母の首を絞める行為なんだと思います。

私ができることは、父と母別々で親孝行することと、せめて弟と父の距離を縮めること、それしかないのです。といっても、(親孝行)やってから言えって話なんですけど…

 

 

かなり長い文章を書いておいて何が言いたいかというと、死にたくない鬱なんです。

親のありがたみを知って、自分を大切にしなきゃと思いはじめてから、あくまで自分の中で、死ぬのは悪だと思ってしまいます。

もしそんなことを思っていなかったら、鬱のぶつけ先は「死ぬこと」なんだろうけど、今の私の鬱にぶつけ先がなくどうしようもない、絶望的な気持ちになります。

 

っていう話です。

死にたくないって、やっぱり鬱じゃないんでしょうか…?検索してもでてこないし、実際精神科で鬱の検査をしても、死にたい気持ちがないだけで軽く見られてしまいます。

…ただ、家族の誰かが死んだら死んじゃうかもしれないです。

考えることがどんどん悪いほうに進んでなんならしてないのに「親孝行して母が満足して自殺しちゃったらどうしよう」とか、なくもないとおもってしまいます。

精神科の先生も、だかに話すだけで全然違うからっていってたので、自分に対しての最大の解決方法はこのブログに書いてる通りの自分の気持ちを手紙に書いて渡すということです。でも結局それも言ってしまえば私利私欲な気もするし、私の選択って人生をトータルしても8割が失敗してるので、それがブレーキになって実行できていません。

 

境遇は違えど、死にたくない鬱の方っているんでしょうか…

 

ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。

お手数じゃなければ、なんかしらのコメントお願いします…。

とりあえず、次記事にするまでに文をまとめることをお勉強しようと思います…笑